令和7年度 修了式 校長の話し
※この講話はスライドを使って話しています。スライドは非公開です。
皆さんおはようございます。今年度の修了式を迎え、最後の日となりました。今日は、ここにある通り、心について話してみたいと思います。というのも、私は校長であると同時に美術の表現者、彫刻作品を創る者として、あまり意識はしてかなかったんですが、これまで「生命」をテーマに作品を作ってきたような気がします。いろいろ思う所があって、これからは「心」をテーマに作品を創ってみようかと思っています。そこで、そもそも「心」とはなにかについて、考えてみたいと思います。私なりに「心」とは何か、その輪郭が少しでも描けたらと思います。このことが、来年度の皆さんの学びに何らかの役に立ったらと思います。
さて、「心の強い人」であるとか「心ない人」、「心変わり」など、私たちはしばしば「心」という言葉を使い、気持ちや考えを他者に表現しています。先日、WBCで今年はベネズエラが優勝しました。日本は残念でした。昨年メジャーリーグの殿堂入りを果たしたイチローさんが、今からもう17年前の皆さんが生まれるか生まれる前の話、2009年のWBCで、「心が折れそうになった。」という発言は、当時けっこう話題になりました。打撃不振が続いたイチロー選手が勝利後に吐露した言葉でした。
そこで、そもそも、その人の「心」とはどこにあるのでしょうか。小学生に聞いてみると胸を指したりします。中学生ぐらいになると、それは頭の中と答えるかもしれません。大人に聞くと、まともに相手にしてくれないか、「脳内現象じゃないの。」などと答えてくれたりします。生真面目な人は、どこにもないと答えるでしょう。
「心」とは何か。これについてしっかりとその意味を捉えていないまま、私たちは「心」という言葉を使い、あいまいな意味を共有しています。以前、ソシュールの言葉に関するシニフィエとシニフィアンの関係についてお話しましたが、「心」という言葉は記号であって、その意味内容は人間がつくったもので、実態を掴みにくく、不確かな存在です。とはいえ、「心」という言語的事実はあります。
そこで、「心」とは何か。これを探す手掛かりとして、大辞林という辞書で調べてみました。すると、「①人間の体の中にあって,広く精神活動をつかさどるもとになると考えられるもの。②なになに、③なになにとか書いてありましたが、と、言葉の用法としてはこうなっていて、私たちはこのルールで「心」という言葉を使っています。
ですがここで、「心」は「①人間の体の中にあって,」とはっきりと明記されていますが、本当にそうなのでしょうか。辞書は必ずしも真実が記述されているわけではありません。
安藤ロイドとか石黒イドというジェミノイドで有名な大阪大学大学院の石黒教授は、「心」について、次のように語っています。「いくら『心』の存在が曖昧なものだと言っても、ほとんどの人が自分は『心を持っています。』と自信満々に言う。しかし、『それを見てください。』『それが何か説明してください』と言うと、全くできない。」さらに「私がアンドロイド(人に酷似した人間型ロボット)でさえも人間と同じように『心を持っている』と主張することと、それが人間の『心を持っている』という主張と、ほとんど変わらないことを説明しても納得しない。」つまり、自分には「心」があると、人は直感的にこたえるけど、それは、アンドロイドに「心」があるという論理と、変わらないんだけどね。ってことです。
石黒教授が製作する「ジェミノイド(複製アンドロイド)」は、そこに本人がいなくても、対峙する人間が「そこに心がある」と感じれば、関係性の中に「心」が発生することを証明しています。
石黒教授自身とそっくりな外見を持つアンドロイド「ジェミノイド」を用いた実験では、以下の現象が確認されています。どんな実験をしたのか?まず、存在感の認識。 ジェミノイドを介して会話をする相手は、次第にロボットを単なる機械ではなく、遠隔操作している「石黒教授本人」として扱い始め、存在感を認識します。左の画像の左が石黒教授で、右が石黒教授とそっくりなジェミノイドです。右の画像の手前が被験者で、ジェミノイドと向き合ってコミュニケーションしています。ジェミノイドの後ろの黒い衝立の向こうに、石黒教授がジェミノイドを操作しています。続いて身体感覚の共有が起きます。実は、操作者側も、アンドロイドの肩を叩かれると自分の肩を叩かれたように感じるなど、機械の身体に自分の「心」や「存在」が移ったかのような感覚を抱き、身体感覚の共有が現れます。これにより、心や存在感とは物理的な肉体に固執するものではなく、相手との情報のやり取り(関係性)によって立ち上がるものであることが示唆されます。つまり、石黒教授は人間と酷似したアンドロイドを用いた研究を通じて、「心」が個体の中に実体として存在するのではなく、「人間との関係性(インタラクション)の中に生じる主観的な現象である」ことを実証的に示したわけです。
心は人と人のあいだにある。ってことです。
次に、精神病理学者 木村 敏さんが「音楽」を題材に演奏者と鑑賞者の関係性の視点から、フッサールの言説を持ちいて説いています。
木村敏さんがどんな言説を使ったかというと、現象学という学問領域を切り開いたフッサールさんの心のはたらきについて示した「ノエマ」と「ノエシス」という考え方です。「ノエマ」は意識の内容を指し、ノエシスは意識のはたらきを指します。見え方や意味がノエマで、心の作用がノエシスとなります。ちょっとこれじゃわかりにくいね。そこで、分かりやすく、フッサールの言う心のはたらきを「定期テスト」に例えるとこの通りとなります。右のノエシスは、「うわ~、嫌だなぁ」 と、思う心の動きで、左のノエマは、心の中に浮かんでいる「嫌なものとしてのテスト」こうした考え方を使って、木村敏先生は、音楽の演奏と鑑賞、演奏者と鑑賞者の関係性からノエマとノエシスによってこう考えました。
音楽で考えてみると、ノエマ的把握(モノ的)は、音楽を、すでに完成された「作品」や「音の情報」として、外側から眺めるように受け取ること。ノエシス的合致(コト的)は、音楽が「私」に鳴り響き、同時に「私」が音楽そのものになってしまうような、主客の区別が消えた生成のプロセスであると。
音楽を例にすると、演奏者は、曲全体を把握しつつ、今まさに響を生む行為と、次に奏でる音を感じている。一瞬一瞬に。一方、鑑賞者も、曲全体を把握しつつ、今まさに生まれる響きを聴き、次に奏でる音を感じている。それを一瞬一瞬に。しかもこの広い会場でです。どういうことかというと、演奏者と鑑賞者(聞き手)が同じリズムや命の拍動を共有する「ライブ(生)」な事態にあるのがオーケストラという音楽の場なわけです。
そこではどんなありようがあるかというと、演奏者は、「次はこんな音を届けたい!」と心をこめて弾きます。(ノエシス的)な作用があって、鑑賞者には、「わあ、きれいな音だな」と心をすませて聴きます。といった(ノエシス的)作用があるわけです。この時、「弾く人の心」と「聴く人の心」が、目に見えない空気の中でぴったり重なる瞬間があります。これが「あいだ」です。つまり、演奏者と鑑賞者は、別々に存在しているのではなく、ノエシス的な音楽という一つの命を、その場の「あいだ」で一緒に生きているというわけです。木村先生は、音楽の本当の姿は、楽譜の中(ノエマ)にあるのではなく、「弾こうとする力」 と 「聴こうとする力」 が混ざり合った「あいだ」に生まれると考えました。
以上の考察をまとめると、心は「関係の織り成し」であることが見えてきたと思います。石黒教授のアンドロイドの逆説からは、 「私」が「あなた」を心ある存在として認め、その応答によって「私」もまた心ある存在として再構築される。この終わりのない相互作用のプロセスこそが、私たちが「心」と呼んでいるものの正体ではないか。という示唆がありました。木村先生の音楽の考察からの提言では、「心」は個人の頭蓋骨の中に閉じ込められた「実体」ではなく、ノエシスが他者を介して循環し、人間同士が複雑に共鳴し合う境界線「あいだ」に立ち現れる「現象」である。ということが理解できました。 私なりの結論として、こういうことが言えます。心は個人の内側に閉ざされたものではなく、他者との関係性、すなわち『間〈あいだ〉』に立ち現れるものである。
今日は心について考えてみました。皆さんも、この春休みを利用して、疑問や不思議なことをみつけて考えたりしてみてはいかがでしょうか? 新学年に備え、有意義な春休みを過ごしてください。